俺は目を覚ます。  ここはどこだ。見覚えのない部屋である。部屋の造りが見慣れた平安の土造りでもないし、都のものとも違う。  明らかに、俺のいた時代とは違った。  どうやら、泰山府君祭――転生の秘法は成功したらしい。 「この魂の波長……間違いありません」 「芦屋道満《あしやどうまん》……千年の時を超え蘇ったか、最強最悪の陰陽師!」  そう叫ぶ声が聞こえる。日本語だ。転生した場所も日本のようである。  しかし最悪の陰陽師か。まあ前世でもそう言われていたし、ことさら否定する理由もあるまい。 「今ここで殺しておかねば……この国は!」  ……。  どうやら、父親は外れだったようである。まさかいきなり我が子を殺しにかかるような親とは。  だがしかし、俺は平和的な人間である。まずは交渉を行おう。  出生すぐの赤子の身、出来る事は……念話の術か。 『落ち着いて欲しい、私は国やあなたたちに害をなすつもりはない』  よし、念話は上手くいったようだ。 「な、なんだこの声は!」 「……っ、生後すぐに術を使えるだと! なんという恐ろしい、やはり言い伝えは本当じゃったか!」  ……。  この反応、どうやら失敗したやもしれぬ。  まあ、さもありなん。いきなり脳内に声が響けばこの反応もやむなしであろう。  しかし、我が名を知っているならば、念話程度で驚く事も無いと思うが。まあよい。 『再度言おう。我が名は芦屋道満。我は……』 「帰命全方位切如来一切時一《ノウマク サラバタタギャテイビャク》切処暴悪大忿怒尊《サラバボッケイビャク サラバタタラタ》一切障碍滅尽滅尽残害破障《センダマカロシャダケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン》!!」  俺の言葉が終わる前に老人が真言を唱える。これは不動明王|火界咒《かかいじゅ》。不動明王の権力により、煩悩や魔、そしてて敵対者を焼き尽くす術だ。  なるほど、俺を焼き尽くすつもりか――産婆と母親ごと。  それは……よろしくあるまい。  なるほど、かつて多くの者に忌み嫌われた邪悪なる法師陰陽師芦谷道満、生まれた事そのものが罪と言われれば、そうやもしるぬと言えよう。その程度の自覚はある。  されど、ただ取り上げただけの産婆、ただ産んだだけの母親に罪など微塵もあるまい。あってたまるものか。  だが、この赤子の身でどれだけの事が出来よう。自身を守るだけなら容易とて、この二人を守れるか――  ならば答えは簡単である。  心の中で所作を念じ、光の盾を、二人の前に展開する。  これで良し。  この赤子の身は焼かれ死ぬであろう。だが、無辜の者を見殺しにして生き残るよりは、よほど良い。  そして、破邪の炎が部屋を包む。  嗚呼、転生してすぐに死ぬのか――なんと儚き人生であった。  そう、思ったのだが。  俺の眼前に、炎が舞っていた。  俺を焼き尽くそうとした火界咒の赤き炎よりなお赫い、紅蓮の炎。  太陽のごとき灼焔が、俺を護っていた。 「――遅くなりました。御生誕、真に目出度く、お慶《よろこ》び申し上げます」  炎の中から、声。いや、炎そのものから声が響く。灼熱の中でなお涼しげな、鈴のような声。 「――道満様が式神、九重《ここのえ》。復活を祝い馳せ参じました」  炎が晴れる。そこに佇んでいたのは、十歳程度の少女であった。  黄金の稲穂のような髪、その頭には同じく金色の狐耳がついている。  巫女の服を着こみ、狐の尻尾を生やしているその姿に、俺は見覚えがあった。 『九重か……久しいな』 「はっ」  九重はうやうやしく頭を垂れる。  多少縮んでいる気はするが、間違いない。我が式神の少女である。 「――して。この不届きものたち、いかに消し去りましょうや」 『待て』  物騒である。そういう所は千年の時を経ても成長しておらぬか。 『そのような者どもに係わる時間など無い。それよりも、この時代を見て回りたい』  せっかく守ろうとした母と産婆だ。死なせるには忍びない。もはや彼女らの元で育つことは不可能であろうが。  だからここは――逃げの一手である。 「御意に」  そして俺の身体は、不燃の幻炎に包まれ、浮き上がる。 「……っ、待っ――」  声をかけてきたのは、俺の母だ。  だがすまぬ。貴女に罪はなかろうと、もはやこの家を俺は家族と思えぬ。ここに居ても不幸な未来しか見えぬ。  おさらばだ、母上。せめて、ご健勝のことを。  九重の炎が、家屋に穴を開ける。  そして俺達は、この家を飛び出し、立ち去った。 ◇ (さて、これからどうするか)  俺は思案する。  俺の生きてきた時代より千年。随分と様変わりしているのが見て取れる。  かつての町の面影は何処にもなく、四角く硬い、石でできた建物ばかりだ。これが当世風というものか。 (まずは、学ばねばならぬな) 「左様でございますね、道満様。この千年を現世にて彷徨っ――生きてきたこの私めが道満様に色々とお教えしたく存じます!」  ……。  不安である。  先程もそうだったが、この式神、いささか思慮が浅いというか、猪突猛進のきらいがある。 (いや、お前は大事な俺の護衛戦力だ。護衛に集中して欲しい) 「はい!」  ……。  単純なのも変わっておらぬ。  本当に大丈夫であろうか。  さて、気を取り直して。  今の俺に必要なものは……。  その時だった。 (むっ……これは) 「邪霊の気配です、道満様」  九重も感じたか。 (うむ。しかもこれは……戦っているようだな、人間が) 「いかがいたしますか」 (放っておくわけにもいくまい) 「……御意」  俺と九重は、その気配の方向へと飛んだ。 ◇  五級邪霊、餓鬼蜘蛛《がきぐも》。鬼の顔をした巨大な蜘蛛である。  それを、一人の術師が迎え撃とうとしていた。 (ほう)  その術の手腕は、正直……稚拙であった。無様であった。見苦しく不格好で、幼稚。とてもではないが、一流の術者とは言えないものであった。  だが。 「うおおおおおお!」  その若き術師は、裂帛《れっぱく》の叫びを上げながら、術を編み、餓鬼蜘蛛と戦っていた。  背後には足を怪我して動けぬ少女。そしてそのさらに後ろには、建物がある。その建物には、逃げ遅れた子供たちの気配があった。  だからであろう。彼には逃げるという選択肢など最初からなく、その瞳には諦めるという意思もなく、ただ目の前の邪悪なる怪異を打ち滅ぼさんが為、術を行使していた。 (見事なものだ)  俺は素直に感心した。  だが、それでも。  如何に心意気が天晴であろうとも、覆せぬ現実と言うものは――存在する。 「ぐああっ!」  若き術師の放った術が餓鬼蜘蛛に弾かれる。そしてそのまま、彼は吹き飛ばされた。 「くっ……くそ!」  必死に立ち上がろうとする彼の眼前に、巨大な蜘蛛の顔が迫る。 「くっ……くそ……っ!」  このままでは彼は死ぬ。そして彼の後ろにいる、護ろうとしている者たちも。  それは……あまりにも惜しいと思った。 (九重) 「――はっ」  だから俺は、九重に命じた。 (……祓え) 「御意」  瞬間、餓鬼蜘蛛の身体が炎に包まれる。九重の放った火界咒である。  手印の結びも神咒の詠唱も無く放たれたそれは、瞬く間に餓鬼蜘蛛を焼き尽くしていく。  数秒もたたずに、餓鬼蜘蛛は燃え尽き、もはやそこには焼け跡が残るのみであった。 「はぁっ、はっ……っ!」  若き術師は息を切らせながら、餓鬼蜘蛛のいた場所を呆然と見つめていた。 「な、なんだ……これは」  ふむ。丁度良き頃合いか。 「控えよ」  俺が念話で語り掛けようとした時、九重が彼に語り掛ける。 「――っ!?」 「芦谷道満様の御前である。平伏せよ」  ……。  初対面の者にはもう少し柔らかく話しかけられぬものか。見ろ、委縮しているではないか。 「芦谷……道満……?」 「左様。このお方こそ、泰山府君祭にして見事転生を果たされた、かの高名な法師陰陽師、芦屋道満様その人にあらせられる」  九重がそう紹介する。  その言葉に、青年は慌てて佇まいを正す。うむ、礼儀正しい青年である。 「あ……ありがとうございます、危ない所を助けていただき……」 『礼には及ばぬ。邪霊に挑むその雄姿、天晴である』  俺は念話でそう答える。 「……!? これは念話……赤子が!?」  驚く青年。まあ、普通驚くであろうな。 『如何にも。記憶を保持したまま転生を果たした故、赤子の身なれどこの程度は出来る』  されど、赤子である。不便な事は多い。  ……ふむ。そうだな、つい助けてしまったが、これは丁度良い巡り合わせやもしれぬ。提案してみるか。 『若き術師よ。名は』 「は、はい! 秋房……芦原秋房《あしはらあきふさ》と申します」  芦原、か。俺の名と似ているのも何かの縁か。 『そうか。では芦原秋房殿』  俺は彼に話しかける。 『我が父にならぬか?』  その言葉に。 「……え「どどどどどど道満様ぁあああああ!?」  蘆原殿が何か言う前に、九重が絶叫した。  ……五月蠅い。赤子の耳には五月蠅すぎる。俺がただの赤子ならば今ので泣いていたぞ。 『時に。その少女は何者だ』 「えっ……それは、その」 『妻か?』 「いっ、いえ、まだ……」  ふむ、まだ、と来たか。 『ならばちょうどよい。夫婦となり、我が両親となるがよい。いや、親となる者にこの言葉は良くないな。両親となるがよいかと存じます。嫌でなければ是非ともお願いしたく』 「えっ……いや、その」 「どどどどどどどどど道満様ぁっ!?」  九重、さっきから五月蠅いぞ少し黙れ。 『見ての通り、この身は赤子。さらに言えば、生まれてすぐ、芦谷道満であるという理由で殺されそうになり、逃げてきた身』 「えっ……」 『故に、身を寄せる保護者が必要なのです。適当な呪術師の家に売り込む事も考えましたが』  この地の地脈から呪術の痕跡を辿り、地の守護結界を担っているであろう呪術師、陰陽師に売り込むのも考えたが。  しかし、そういう家ならば権謀術数に巻き込まれるのは必至であろう。正直もう面倒くさい。  転生した目的、いや、課せられた使命を果たすにはなるべく自由な方がよいだろう。 『あなたと出会えたのも何かの縁。どうでしょう、これはあなたにとっても良い取引であると存じますが、芦原秋房殿』 「良い……とり引き?」 『然様。私を育ててくれるならば、私も貴方を育てましょう。芦谷道満の術を伝授し、鍛えようではないですか』 「……っ!」  秋房殿は息を呑む。  さもありなん。かの芦谷道満の教えを受けられるというのは、千年前でもかなりの実利と栄誉であった。 『力が、欲しいのでしょう』  俺は語り掛ける。彼の魂の渇望に付け込むように。 『強く、なりたいのでしょう。彼女を護れるように』  力への渇望。  千年前ならば誰もが力に飢えていた。今のこの時代がどうのかは知らぬが、それでも呪術師ならば。男児ならば。  力を求めぬはずがない。愛する者がいるならばなおのことである。 『――どうしますか、芦原秋房殿』 「俺、は……」  彼は。  抗う事など、出来なかった。  ――この日、この俺、芦谷道満は転生を果たし、そして新たなる父母を得た。 ◇  あれから五年がたった。  五年間生きてみて分かった事だが、この時代は俺の生きていた時代に比べ、人間が生きやすい。  魔物や呪いにさえ気を付けていれば、飢餓は無く、病も発達した医術呪術によってたちどころに治る。  なんとも、人が生きやすい時代となったものだ。この平正という時代は。  そしてこの俺、芦屋道満は…… 「おーい、斗真《とうま》!」  書斎で本を読んでいると、血の繋がらぬ義理の父である芦原秋房が俺の名を呼ぶ。そう、芦屋道満では色々と不都合があるので、新たな名前を得た。  我が式神である九重は「偉大なる道満様の名を捨てさせるとは不敬」と文句を言っていたが、されど大事なのは名ではなく中身である。  芦原斗真《あしはらとうま》。それが今の俺の名だ。 「なんでしょうか、父上」 「昼飯だぞ。早く来なさい」 「分かりました、今行きます」  俺は本を閉じ、書斎をあとにする。 「お前なあ、五歳児ならもう少し言葉遣いというものを」 「これでも必死に勉強して直しました。平安言葉では色々と平正の時代では通じませんでしたし」 「いや、そういうことじゃなくてだな……」  千年の間で言語も随分と変わった。俺の知らぬ言葉も色々と増えていた。 「子供っていうものはなあ、もっと自由奔放で舌ったらずな喋り方というか……」  秋房が言う。そういうものなのか。しかしこればかりはどうにもならない。 「鋭意努力、粉骨砕身にて精進に励みます。以降もご指導ご鞭撻のほどを」 「あ、無理なやつだこれ」  秋房がいう。解せぬ。 「あ、おにいさまー!」  茶の間へと足を踏み入れた俺を妹が出迎えた。  そう、妹だ。芦原秋房と芦原茜が夫婦となり、生まれた娘である。芦原昴。俺の一歳年下、当年とって四歳である。 「おにいさま、あそぼ!」 「これから昼食です。食事の後、父上との稽古の後でなら」 「やったー!」 「あらあら、良かったね」  悦ぶ昴に、母親である茜が優しく声をかける。「昴は良い子ですね」  俺が茜に言うと、茜は嬉しそうに応えた。 「ええ、私の自慢の子です。あなたと一緒よ、斗真」 「光栄です」  俺は茜に向き直り、笑顔で言った。 「うんうん」  茜は笑う。義理の母であるこの女は、真っ直ぐな心根と母性の持ち主であった。 「おにいさま!はやくごはんたべようよー!」  昴が俺の手を引く。 「はい、分かりました」  俺は昴に引かれるまま、茶の間の机の前に座る。  茜も俺の向かいに座る。今日は焼き魚がメインの和食らしい。美味そうだ。 「いただきます」 「いただきまーす!」  秋房の言葉と共に、昴が元気いっぱいに言う。  ……平和な光景である。これがこの時代の風景。俺が生きていた千年前、平安時代と呼ばれる時代とは雲泥の差だ。  俺の目的の一つは、叶ったと言えよう。  転生の目的。それは、穏やかに平和に生きるという事だ。  都の貴族たちの権謀術数、おぞましき人間の闇。盗賊たちの横行、災害、飢饉。そして血生臭い戦。  そのような世界で、法師陰陽師《ほっしおんみょうじ》として民の依頼、そして権力者たちの依頼を受けてきた。  法師陰陽師とは、宮廷に仕えぬ陰陽師たちの総称である。帝に仕え、暦を読み、国家鎮守のために働く陰陽量の陰陽師と違い、在野に生きる者たちだ。  俺は別段、宮廷仕えが嫌なので法師陰陽師となった――というわけではない。  ただ、播磨の国に生まれ、法師陰陽師の下で育ったからそうなった、というだけのことだ。あの時代は誰も彼もが生き延びることに必死だった。そして気が付けば、国内有数の陰陽師となっていた。  だが、それで楽になったとは言えぬ。確かに生きることは出来た。されど、人と人、人と魔の争い、その渦中に投げ出され、そしてまざまざと見せつけられたものだ。  人の醜さというものを。  もちろん、人間はただ醜いだけの生き物だというつもりはさらさらない。時代がそうさせたというのも理解している。  だが、疲れたのだ。  生きるために誰かを呪う人々。  自分が楽に生きるため、享楽にふけるために誰かを呪う人々。  それらのため、あるいはそれらから身を護るために、依頼を受け、呪詛をこなし、糧を受け取る日々。  宮廷仕えの役人陰陽師と何も変わらぬ。否、在野に生きるがゆえに、民草だけでなく、民草のふりをして依頼に来る貴族たちも多かった。  何も変わらぬ。他者の都合の為に呪う日々。  そう、俺は疲れたのだ。  だから、次の生は平穏を望んだ。死を迎える時に、俺はあの秘術を使用した。  泰山府君祭。  寿命を延ばし、死を覆し、そして魂を輪廻転生させる、魂の秘法を―――― ◇  俺は目を覚ます。  さて、ここは何処だ。  俺は確か――そう、死んだはずだ。  最強最悪の法師陰陽師。邪悪なる朝敵を打ち滅ぼさんと多くの呪術師、陰陽師たちが決起し、そして俺を正義の名のもとに打ち倒した。  それを俺は恨みはせぬ。時代がそうさせたのだから。  だが、死の間際に輪廻転生の秘法――泰山府君祭を敢行した。正確には、戦いに赴く前にその儀式を終えていたのだが。  そしてそれは成功したのか。 『よくぞ来た。陰陽師芦谷道満』  声が響く。  俺はその方向を見る。  そこには―― 『我は泰山府君なり』  巨大な威容があった。 「泰山府君におかれましては、ご機嫌麗しゅう」  俺は礼を取る。 「して、泰山府君がわが眼前におられるということは、私はまだ死んでいないという事ですか」 『いや、ここは冥府である。そもそも我は泰山府君、冥府の……』 「冥府、常世とは」  俺は泰山府君の言葉をさえぎって言う。 「死者の魂の眠る場所であり、死者が暮らす場所では無い。そこはただ静寂あるのみ、例えるなら人のおらぬ大図書館とでもいうべきか。  生者の魂が眠りや陽神の術でそこを訪れ死者の魂と対話する事は可能だが、死者の魂そのものに意識はない。  意識、心とは肉体と魂の連関によって生じるものだからです、泰山府君よ。釈迦に説法ではありましょうが」  俺は語る。これは一部の術者には常識である。大半の術者は、冥府常世に死者や神仏が暮らしているという迷信を信じているが。まあ、生者からの主観的には対して変わらぬか。 『くくく、然り』  泰山府君は笑う。  この泰山府君も、冥府に暮らす者ではない。泰山府君という人々の意識から作られた『容《カタチ》』と、そこに込められた記憶に過ぎない。  されど、紛れもなくそれが泰山府君。人の生死を司る存在である。 「つまり、私はまだ死んでおらず、これは――どちらでしょう。泡沫の夢か、それとも今わの際の幻か」 『後者である、芦屋道満よ』  なるほど。つまり俺はまもなく死ぬのだな。 「私は、裁かれるということでしょうか」  泰山府君――別名のひとつが閻魔大王。人の魂を裁き、その魂の行き先を決定する審判者である。  さて、最強最悪の邪悪なる法師陰陽師と呼ばれた俺である。行き先は地獄道か修羅道か。もっとも、それは実際にそういう世界があるというわけではないのだが。 『そのはずだったがな、蘆屋道満。貴様は泰山府君祭を行った。故に、自我記憶を残した転生を用意する道もある』 「……ほう」  朗報である。元々、全ての魂は転生する。その転生は、多くの人が想像するそれとは幾分違うのだが、それでも魂は転生を果たす。そしてそれならば泰山府君祭における転生の秘法は意味のないものではないかと思うだろう。それはある意味では合っている。  だが、泰山府君祭により行われる転生は、魂の統合・再分配が行われぬ、今の魂そのままの転生である。 「俺」は「俺」が損なわれる事なく、「俺」のまま再び生を受ける。それが泰山府君祭である。 『だが、条件がある、芦屋道満よ』 「それは何でしょうか」  泰山府君は何やら条件を出してきた。そしてこういう場合は、断らぬ方がよい。  これらは死者たちの記憶、すなわち世界の記憶が――世界そのものが俺に何かを求めているということなのだ。  非情に面倒ではあるが。 『とある者を、殺してほしい』  ……それは世界の意思。  つまり世界からその存在を忌避され拒絶される者が現れるという事か。  ……俺ではあるまいな。ほら、俺は最悪の陰陽師と言われ討たれた身であるし。  などと思ったが、どうやら違うらしい。 『天魔王、波旬《はじゅん》』  泰山府君はそう、口にする。  確か……仏教における魔王の名か。 『第六天魔王、金色魔王尊、時代や地によって様々な名で呼ばれる。汝の悪名の比ではない、邪悪よ』  なるほど。親近感がわきそうだな。 「悪には悪をぶつける、ということですか」  蟲毒の壺にならねばよいが。 「して、その転生とは、どれくらいの年月の後になるのでしょうか」  その言葉に、 『千の冬を越えた先よ』  泰山府君はそう答えた。  千年か。それは、なんとも長いものだ。  だが、俺の望みが平和な時代に穏やかな生を送りたいというものであるから、それを満たすならばそれくらいの時が必要と言う事なのだろう。  この国も、救いがたきものだ。 「――わかりました」  俺は泰山府君に言う。 「その転生、お受けしましょう」  致し方なし。戦わねばならぬとはいえ、比較的平和な生を得られるというのならば是非も無し。 「天魔王波旬討滅の使命、お受けいたしましょう」  泰山府君は俺に向かって笏を突きつけて言う。 『芦屋道満よ、ならば今は眠るがよい。再び、目覚めるその日まで』 「委細承知」  俺はそう答え、目を閉じた。 『さらばだ、芦屋道満よ、良き来世を』  泰山府君の声が遠くなる。  そして――俺の意識はそこで途絶えた。  そして俺は転生を果たした。 ◇  昼食の団欒が終わり、陰陽術の修行の時間が始まった。  そう、修行だ。芦原家の日課である。  その内容とは―― 「急々如律令《きゅうきゅうにょりつりょう》」  俺の言葉が響く。そして中空に生まれた炎が飛ぶ。 「うわわわわわっ!」  その炎弾を、父――秋房が必死に避ける。 「避けてはなりません。術で防ぐのです。陰陽五行水剋火、基本でしょう」  水は火を消し、弱らせる。五行相剋のひとつである。 「は、早いんだよお前の術! つか、なんで詠唱しねぇんだよ!」 「必要ないからです」 「チートだろそれ!」  チート。今の言葉で、卑怯、いんちき、などといった言葉だったか。 「ふむ」  俺は術の行使をやめる。指を鳴らすと、炎弾がかき消える。 「はーっ、はーっ」  秋房は息をつき、その場にへたり込んだ。汗だくである。 「では、座学にいたしましょう。父上、そもそも何故術に詠唱が必要なのでしょうか」 「そっ、そんなこと言われても……常識っていうか……  術の詠唱は己と世界に働きかける力の言葉で……」 「その通りです」  俺は言う。秋房の言葉は正解だ。  しかし、足りていない。 「己自身に、そして己を通じて世界に語り掛け、因果律に従い理を操り、五行に従い様々な効果を引き起こす。それが術です。  しかし、他者にならともかく、己自身に語るのになぜ言葉を口に出すのが必要なのでしょうか」 「それ、は……」  秋房は口ごもる。そもそもそういう発想すらしていなかった、という顔だ。  そう、この時代にはその発想が無い。常識として、術とはそう言うものだとみな思っている。  これは……もはや「咒《しゅ》」だな。  今までは秋房の基礎を底上げする事のみ考えてきたが、まずその咒を解く事から始めぬといけぬか。 「確かに呪文の詠唱は必要です」  俺は言い方を変えてみることにした。 「父上、ひとつ術比べをいたしましょう。  俺が術を放つので、それを防いでください」 「お、おう」  俺は詠唱を始める。 「我、南天の諸神に申したてまつる。地より天に上り、結びて火の柱となり、眼前の敵を焼き尽くしたもう」  俺はゆっくりと詠唱を重ねる。秋房は慌ててそれに対する術を汲み上げていく。 「――っ、我北天の諸神にこい願う! 天の恵み、荒ぶる流れを束ね、鎮め守護する盾となれ!」  そして互いの結びの言葉が重なる。 「急々如律令!」  瞬間。  俺の眼前の地面が大きく動き、土がせりあがり秋房に襲い掛かる。 「えええっ!?」  秋房が叫ぶ。予想と全く違っていた光景だったのだろう。土塊は秋房の創り出した水の盾を飲み込み、泥となり、そのまま秋房の身体に覆いかぶさった。 「ぐえっ」  蛙の潰れたような声を出す秋房。想定通りである。 「え……? な、なんで……」  泥の中で秋房は混乱していた。さもありなん。 「これが詠唱の使い方です」 「な……? だって、今の詠唱は火の……」 「はい。私の言葉で、父上は火の術だと思い、水剋火の原理をもって対応しようとした。それを想定できたからこそ、俺は火の呪術の詠唱を述べ、その実、土の術を放ったのです」  なおあえて土の術を使ったのは、まともに当たっても大ダメージを負わないようにするためだ。柔らかい土をかぶせるだけならば大事には至らぬ。水とあわさり泥になり、たいそう見苦しい姿にはなってしまったが。 「五行相生五行相剋の原理。これを理解し実践する術者だからこそ、そのリズムを崩されると弱い。  フェイントとは実に有効なのです。  だからこそ、詠唱は大切であり、そして……詠唱は不要。  俺の時代では、呪文祭文神咒の詠唱とは、術の理を知らぬ民草へのパフォーマンスでした」  民の前で行う儀式で、詠唱も無しに術を行えば、それは「何もしておらぬ」と思われる。故に必要であった。 「そして、術者の前で詠唱を行えば、何の術を使うか容易に理解され対策を取られる。それを逆手に取り、別の術を陰唱、無詠唱で行う事で裏をかく事も出来る。  術比べとは本来、そういうものなのです。いかに相手の裏をかくか。じゃんけんと同じですね」 「じゃんけんにそんな知略バトル要素ねぇと思うけどなあ……」 「そもそも、呪文とは己に聞かせるもの。別段意味を理解していれば、もけけぴろぴろぽんぽこぽん、という呪文でも術を発動させることは可能です。やりませんが」 「やらねぇのかよ」 「非合理的ですから。自分のみの言語をわざわざ作るよりも、ただ詠唱を隠せばよいだけのこと。  まあともかく、父上にはこれから、術を陰唱する癖をつけていただきます」 「無詠唱じゃなくて、か?」 「はい。口の中、心の中でただ唱える。己にいい聞かせなくとも、思い聞かせる事でも術は発動します。ただ、言い聞かせなければならないという常識、教育……「咒」にこの時代の人間たちが囚われているにすぎない。だからみな、詠唱をしてしまうのです」 「……わかったよ。口に出さずに心の中で詠唱する、だな?」 「はい。それを意図せず出来るようになるまで続けてください。反復練習を重ねて、心身に覚えさせ、悟る。これが最も大事ですから」 「……お前は本当に地道な訓練ばかりやらせるよな。やるけどよ」  これが秋房の良いところだと思う。ある程度の大人になると、人は地道な努力を忌避するものだからだ。素直に努力を重ねられるというのは、それだけで才能である。 「ではこれからの基礎訓練に加えて、呪文陰唱も付け加えていきましょう」 「おうよ」  秋房が返答する。  これが芦原家の修行だ。そう、息子であるところの俺が父親に修行をつけるのが日課である。  無論、妹である昴にも修行をさせている。術は幼いころから学ぶのが基本だからだ。  俺が修行を付ける事で、秋房はどんどん実力をつけてきている。初めて会った時の五級邪霊餓鬼蜘蛛程度、もはや相手にもならぬだろう。  これは俺にとっても必要な事だ。  今世の義理の父秋房に稽古をつけて鍛える事で、俺もこの男から現世の知識や、術を学ぶ。  どれだけ俺に力が在ろうとも、人間社会に生きる以上は住む場所や後ろ盾が必要である。少なくとも元服するまでは。  そして、そうであるからには、父親には強く、地位と財があってもらはねば困る。  力と地位と富、それらがあって人は幸福に平穏に生きる事が出来るのだから。  いずれここを立ち去る身ではあれど、その時まで平穏に過ごすためには、父には強くあってもらはねば困るのだ。  強くなければ死ぬ。  それは、千年たったこの時代でもなお、変わらぬものだった。  魑魅魍魎悪鬼邪霊は変わらず存在し、人々を襲い苦しめている。  平安の頃よりも呪術はより多くに広まり、比較的強くなき者でも使えるように発達しているため、確かに各段と暮らしやすくなってはいるが……それでも魑魅魍魎悪鬼邪霊は存在し、そして人もまた人を呪っている。  本質的には、世界は変わってはおらぬ。  だからこそ、強くあらねばならぬのだ。 ◇ 「では、今日はここまでにいたしましょう」  俺は言う。 「おう、ありがとうな」  秋房はそう答えると、その場に大の字で寝ころんだ。 「あー疲れた! もう一歩も動けねぇや!」  そして大きく伸びをする。 「ならば瞑想ですね。このまま幽世での訓練に移行しましょう」 「ぅおい!」  秋房が叫んだ。 「冗談です。ゆっくりと休まれればよろしいかと。ただ、これから雨が降るので休まれるならば部屋に移動したほうがよいで゜しょう」  俺の言葉と共に、ぽつり、と水滴が落ち始める。 「うへぇ、まじかよ」  秋房はおっくうそうに立ち上がる。なんだ、まだ動けるでは無いか。  秋房は立ち上がった後、俺を掴み、肩車をする。 「……疲れているのでは」 「だからだよ、ちったぁ父親らしてことさせてくれ、それが癒しになるんだよ」  秋房はそう言って笑う。 「……わかりました」  わからない。  俺と秋房は、あくまでもビジネスライクな関係だ。  俺は元服するまでの居場所を提供してもらう。  秋房は俺の知識を得、鍛えてもらう。それだけのギブアンドテイクな関係だ。  つまり、必要以上の家族ごっこは――無意味である。無益である。無体である。 「……」  だというのに、この男は…… 「あらあら、仲いいわね」 「あー、おにいさまずるーい!」  俺と秋房を、茜と昴が笑顔で出迎える。  ……これが、この平和な時代の人間たちなのか。それとも、この家族が特別なのか。  俺には、理解できなかった。  まあよい。  元服まであと10年。それだけ待てば、この居心地の悪い家族ごっこも終わるのだから。