夕暮れに彼女は髪をまとめ直す。右から左、下から上。紅い玉飾りも忘れずに。 鈴の付いた鍵の音、握り玉に先端の当たる音、がちゃりと捻れて開く音。 それらとただいま、の扉の閉まる音との間には、既に玄関に立っている。 視線は彼女の足元から上がって――にこやかな、けれど赤みを帯びた頬をなぞり、 そしてその髪型に赤色の理由を知る。するりとネクタイは一本の布に戻って、 間もなく唇は、一言の言葉も交わされないうちから重なるのである。 ちゅくり、ちゅくり、緩やかに唾液は絡まり、混ざる。男の舌はやや珈琲臭く、 蕩けるような甘さの、女の舌と混ざるうちにそこにカルアミルクでもできるかのようだった。 酒精もないのに――彼女の顔はより赤く、うっとりとした表情となっていく。 リビングからは、ちょうど一つの番組の終わったと見えて、音の波が緩やかに絶え、 一層、二人は互いに酔い痴れる――息継ぎのたびに、もっと、もっと、と、 長針と短針が直角を成したばかりというのに、抑えが利かなくなり始める。 男の脳裏には、早く風呂に入って、着替えて、食事をして、それから―― そんな風な、極めて合理的な手順が毎日のこととして刻まれているのに、 それを若妻の魅力に溺れて、一番最後の段階を前倒しにしてしまうことが茶飯事であった。 どん、と音の波が画面から発されるや、不意に二人は現実に引き戻された。 結ばれてから一年経ってなお、二人きりになれば歯止めが利かなくなるのは、 互いに社会に出た身として、決して褒められたことではなかろう。 けれど――一対の雌雄としてはそれはあまりに純粋な形をしていて、 すっかり冷えてしまったテーブルの上の皿々は、彼らをしようのない連中だと笑っている。 決して広くはない浴室は、二人入ればぎちぎちだ。必然的に、片方は立つことになる。 だがそれで良いのである。背中を流し、髪を梳いてやる分には、都合が良いからだ。 女は、彼の肩甲骨周りのぼこぼことした膨らみが、自分を抱く腕の力の源であることに、 男は、己の腕の中に収まる柔らかですべすべとした肌に、それが自分のものであることに、 互いに興奮を覚えるのである。男と女、というわかりやすい体つきの違いは、 それがもたらす、雌雄の役割の違い――どちらが子を宿すか、という点にまで還元される。 彼女を膝の上に乗せながら、湯船の中に二人して身体を押し込むとき、 男はいつも、幸せ、という言葉をそのまま目方に換算したような重みを実感するのだ。 頭の上で纏められた黄金色の髪――視線は丸見えのうなじを超えて、深い胸の谷間へ。 先端は湯船に浸かってぼんやりと滲んでいるものの、全体の姿はよく見える。 色の濃くなった乳頭は、乳房が浮力によって持ち上げられることによって浅い位置にあり、 さらに下から――腹部によってがっしりと持ち上げられているために、沈みきらぬのだ。 男は彼女の乳房を、後ろから回した手で掴んだ――咎める声は無視する。 目一杯広げた手のひらよりもさらに広がっているなだらかな丸みは、 想像以上にずっしりと重く――湯の浮力を失えば、さらに重い。 それを二つ付けて日々暮らす妻の強さに舌を巻くとともに、それ以上に大きく、 突端――ぷっくり飛び出た臍が循環口に擦れるぐらいに突き出た腹は、 全体が湯に沈み、浮力に助けられてなお、重い、と感じるものであった。 手はほとんど無意識に、彼女の腹部へと移る――水の抵抗を受けながら、 男の指は夢現の境を失ったように、西瓜めいて張った腹の皮を撫でる。 胸を揉まれて少し怒ったような声色をしていた彼女も、いつしかその碧い瞳で、 夢中になって腹部を撫で回す彼を見ていた――無論そこには、母性以外のものもある。 指が腹の皮の上をすうっ、すうーっ…と何度も行き来しているうちに、 湯のせいで暖まった身体は、また、玄関の時のような赤色を帯びていく。 そして臍を爪の先でかりかり掻かれると、妊娠前は凹んで肉の中に埋まっていたそれが、 まるで新たな性感帯と化したかのように、甘い痺れを血流に乗せていく。 二人でいられる残り少ない時間を味わうための、入浴という行為そのものが、 既に彼らにとっては、一つの前戯に他ならないのであった。 風呂上がりの彼女は――やはり髪を高い位置で左まとめにしていた。 それは高校時代の髪型であるとともに、二人の出会いを想起させるものである。 同時に――この髪型でいる、ということは、恋人同士としての、若く無鉄砲な肉欲を、 自分にぶつけて欲しい、そんな合図であった。たとえ臨月の身であったとしても。 もはや夜食に等しい時間のそれを挟んだとて、火照った身体はお互いに冷めず、 寝間着を脱いで裸体を見せ合った途端、両者の目は獣のようにぎらついた。 唇を重ねる――だがすぐ離れ、また重ね、離れ、重ね、離れる。 あれが半日の別離に耐え兼ねての、孤独を埋めるためのディープキスであるとしたら、 今の口付けは、すぐにでも触れ合える距離に相手がいることの確認であり、 この時間を即座の挿入で終わらせてしまうことをもったいない、と思う両者が、 逸る肉体を抑えるためのキスであった――それでも男の性器は先走りに濡れ、 女の股座は、彼よりもひどく腿を滴の降りるほどに濡れてもいる。 ぴたり、とそり立った性器が女の腹部に――丸々と盛り上がって、 彼女の乳房をも隠してしまうぐらいに実った臨月腹に添えられている。 焦らすように先端が揺れ――陰毛の上にうっすら生えた腹毛の上をしょりしょりと撫で、 そしてその嗜虐的な行為とは裏腹に、男は妻の脇腹、膨らんだ腹との境目に浮いた、 痛々しい朱い跡――妊娠線に、気遣うように触れる。かさぶためいて段々に、 自分の子を腹の中で育てたがゆえに付いたその傷を、指でなぞるのだ。 早く挿れてほしいのに、中々そうしてくれない意地悪さと――そんな優しさとの両面性が、 彼女の心に、激しく彼という存在を刻み込む。息は次第に高く上がり、 ベッドに寝転がっていながらも、女は尻を中心にして下半身を緩やかにくねらせて、 彼の性器が奥の奥――赤子ごと貫いてくれるように、煽り立てるのであった。 下半身の揺れは胴を通って乳房にもゆさ、ゆさと重たげに長周期の振動を与え、 重力に引かれて左右に垂れ開いた乳房はシーツに擦れて、甘い乳汁の匂いを放つ。 それが決め手となったのか、雄の獣は目の前の獲物を貪るのに躊躇しなくなった。 雌の獣が、芯まで蕩けた声を吐き始めるのも、それと同時のことであった。 ぎしぎしとスプリングの軋む音は、嬌声を打ち消すには足らない。 いやむしろ、そんな硬い音があるからこそ、声の甘さは引き立てられ、 柔らかな肉が腰に当たって跳ねる音も、両名の体液の混ざる音も際立つのだ。 音に匂いがあるとすれば、それはまさに雌雄の交わりの様相を強く纏っていた。 男が身体を折り曲げるようにして彼女の上に覆い被さりながら乳を吸い、 我が子にすらこの雌の全てをくれてやるまいぞ、と強く主張するごとに、 彼女の声はさらに――彼に求められていることへの悦びに甲高くなる。 腹の子を産んでも、またすぐに次を仕込まれてしまうだろうという予想が起こる―― 産休、育休と続けば――彼女が学校現場に戻るのはいつのことになるだろうか。 まして二人目を間断なく孕まされてしまえば、よりそれは遠くなろう。 二人で彼が済ませるとは思わない。自分がそれで満足できるとも思えない。 優しく腹部を撫でられ――愛している、と夫に囁かれると、彼女は幸福の沼に沈んでいく。 それはどこまでも心地よく、彼女を家庭という小さな世界に縛り付けるもの。 世界の広さを知る、満天の星空からはあまりに遠く隔たれたもの。 ふと思い出した旧友の顔は――乳首をかじられた刺激に、すぐ消えた。